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松山丸三の創業者・岡内秀喜氏は、生まれも育ちも高知の人。
いごっそうの血が勝っていたのか、豪快で反骨精神の旺盛な人物だったようだ。16歳で東京に飛び出し、数々の仕事を経るうち『シースルーの封筒』を開発。選挙に利用されて大儲けをする。その後、大金を散財したのち、高知に帰り、新聞社、銀行マンを経て、高知に「丸三」を設立。昭和27年に、出張所という形で生まれた松山丸三を運営することになるのである。
さて、出渕町(いでぶちまち・・今の花園町)に生まれた店は25坪ほどの広さ。すでに松山にはお菓子の材料を卸す店があったので、ライバルのないアイスキャンデーやソフトクリームを作る冷菓用機器や材料から商売をスタート。次第に現在につながる業務用機器や材料卸も手がけるが、創立して間もない会社の基盤を作ってくれたのが『大判焼』であった。
昭和31年〜33年、獅子文六の小説『大番』が週刊朝日に掲載され、ユーモラスな出世物語が話題を集めた。大番という名前をつけたお菓子も登場。松山丸三でもタイコマン焼き機を販売していたので、そのサイズを大きくして「大番焼き機」に変えようという案があった。だが、まてよ、小説と同じ名前は使わない方がいいだろうと、字を変えて『大判焼』する。あんこがたくさん入った大型サイズの『大判焼』は景気がよいと喜ばれ大ヒット。材料は独自に『大判焼の素』を開発し、大判焼の器具一式と大判焼の素をあわせたセットは、素人でもすぐ店が開けるということからみるみる間に、四国、中国地方から全国へと広がった。今や全国区の「大判焼」の発祥が愛媛の松山にあったとは、今となれば「意外な事実」かもしれない。
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